2009年07月03日

日本の塩の歴史

「古事記」に出てくるシオツチノオキナ(塩土老翁)が、製塩の創始者と言われています。 古代の人は海水を直接煮詰める方法を取っていたと考えられていますが、「万葉集」には、「藻塩焼く」と記録されており、海藻を天日乾燥させ、何度も海水をかけることにより塩の結晶を作っていたと考えられます。 奈良時代になると既に「塩浜」と言われる通り、浜を利用した塩つくりが行なわれていたようです。 安土、桃山時代になると瀬戸内海のほか、各地で塩田による製塩が行なわれていました。当時は、「揚げ浜式塩田」といい、海水を浜に撒き、天日で乾燥させることを繰り返して行い、塩の結晶がたくさんついた砂を集め濃い塩水をとることによりし塩を作る方法が取られました。 今でもこの方式で作られている塩が能登半島で見られます。 その後、塩作りの効率をよくするため、土木技術の工夫がなされ、満潮時の海水を石垣等で囲われた塩田に引き込み、門を閉じ、中の海水含んだ砂を天日で完全に乾燥させる方法に進化しました。塩分が付着した砂をかき集める作業は相変わらず重労働でしたが、この砂を「沼井(ぬい)」と言われる場所に集め、海水を注ぎ、濃い塩水(かん水)を取る方法に変わりました。この方法を「入り浜式塩田」と言い、約300年、昭和30年代まで続きました。特に瀬戸内海沿岸地方では、塩の生産に適した気候と地形であったため、大規模な入り浜式の塩田が多く見られました。 昭和30年代には、「流下式・枝条架塩田法」に変わりました。これは、粘土流下盤といわれる傾斜を付けた流下盤を海水を流し(主には、天日の力で濃縮)、また枝条架に海水を流して濃縮する方法です。入り浜式塩田時代の過酷な労働から解放され、塩の収穫量も増えました。 このように、海に面する日本では伝統的な塩つくりが行なわれていましたが、昭和46年(1971年)、塩業近代化臨時措置法が発令され、1)民間企業が日本の海水から塩を製造してはならない 2)民間企業が独自に海外から塩を輸入してはならない となりました。つまり、この法律によって、日本の塩田が全廃(伊勢神宮の御塩浜は例外)させられました。 国は塩田の代わりに、「イオン交換膜法」と言う日本独自の「イオン交換膜電気透析法」の原理で、海水中からナトリウムイオンと塩化物イオンなどを集めて濃縮する方法を採用すると同時に、オーストラリア、メキシコの天日塩を大量に輸入することで対応しました。 このイオン交換膜法の塩は、純度の高い塩化ナトリウムを抽出するには優れた方法でした。 しかし、各地で塩田復活の消費者運動が起こりました。塩田の復活は認められませんでしたが、専売公社が輸入する海外の天日塩を原料に、再製加工する塩は認められました。また、伊豆大島では海水から塩の製造が試験的に認められました。また、海外からの天日塩等を、試験的に独自の輸入販売が認められました。 この明治38年がら92年間続いた塩専売法も、平成9年(1997年)3月に廃止されました。現在では、国内で海水から自由に塩を作ったり、海外の天日塩、岩塩を自由に輸入販売することができるようになりました。

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